昭和39年12月17日 朝の御理解
昨日の朝頂いた御理解です。信心の味わいと言う事。味の音痴になってはならない。信心にもその音痴があるとおかげだけを頂いて、おかげの味わいというものを味わいきらんとそれではいけん、と言う様な御理解だったでしょう。甘い辛い酸い苦いと言う様な味わいというものを味わう。それはどう言う様な時にその味わいを味わうかというとあの盛り塩のお知らせを頂いて、その事から皆さんにお伝えしましたですね。
願い事が成就して、成就しないと、右と願っても左になると、言う様な時ほど神様は、味わいを分かれよと言うて下さっておる時であると、言う様な御理解でしたね。確かにそうです。昨夜の御理解にそれと、続いたような御理解という訳じゃないですけれども、やはりそんな甘い辛い、苦い酸いということについての御理解頂いた。それをお互いが願っておる願いというものは、やはり日勝り月勝り年勝り代勝りのおかげを頂きたい。いや神様もそういうおかげを頂いて欲しいと、願うておられる私共もそうである。
このこと一つをおかげ頂けばよいという事はないでしょう。ね。本当に日勝り月勝り年勝り代勝り、そういう末広になって行くようなおかげを頂きたい、誰でも願っておることである。そこでその、願いの肝心要のところ。例えば扇子で言うならば、扇子のような末広のおかげを頂く。あの要が緩んでおったり、なかったりではこの折角の末広が台無しになってしまう。と言う様な御理解だった夕べは。
そんなその肝心要の、信心とはどういうような信心をもって、肝心要というかと、私共の信心の内容としてです、いわゆる甘い辛い、苦い酸いがなからなければいけんという、御理解だった。甘いというのは、バカほどに一つぬけたような、その素直さをどうでも必要とすると。素直さ。ね。辛い、いわゆるシャンとしたもの。しみじみとしたもの。ね、言わば辛抱し抜かせて頂くというような信心。
シャンとしたおかげを頂き抜くまではと言った様なシャンとした、言わば辛いと言う信心。苦いと言う信心。お互い日々の中にも苦い思いをすることがある。そういう時に愈々自分の心の胃腸の、言わばセンブリでも飲んでおる時のような気持で、有り難うございますと、おかげで今こそ胃腸が強うなっておりますと。心の胃腸が段々豊に大きゅうなって行くというか、強うなっていく事をお礼を申し上げるような信心。
酸いし甘い辛い。酸い苦いという。酸いというのは神様の願いというか、ね、何時も心を神様に向けておいて、神様が氏子に何を求め給うかと。まぁ手近のところで言うなら、先生が私共に何を求めておるかと。と言ったようなところをです、言わば痒いところに手が届くような、言うならあの酢の効いた信心。中々感の強いこと、この辺の、この辺では、中々あの人は甘木酢が効いとると言った様な事を申します。
よっぽど甘木の酢が効いとったんでしょうね。昔からそういう風な、この辺では言うんです。いや、酢が効かにゃいかん。ね、神様が私にあれを求めてござる、ということは分かっておっても、知らんふりする。こげな横着なことはないと。私に神様が、先生は何を求めてござる、と言う事が分かっておっても、知らんふりしておる。こう言う信心を横着な信心といんです。
もう実意をだんもうこん、根底からなくした信心である。出けてん出けんでもそれに答えさせて頂こうというような、言わばこえらしげのある信心。ね。だからこそまた、私共が、なんとうはなしに、心の中にもの欲しく願っておる事に対してです、あれがあれば欲しいと思いよるばいな、と言うて神様がれんこん食うて下さるようなおかげをまた頂けれると、言うような御理解だった。
甘い苦い、酸い辛いね。そういう味わいを信心の上にも、味わうチャンスと言うのは、私共の願いが成就しないとき、ね、そこ、それをしようとして改まり、それをしようとして、それを一つの機会として、改まっていかなければならない。と言うような御理解から昨夜はです、お互いが日勝り、月勝り年勝り、代勝りのおかげを願わなきゃならん。それの、あらゆるあっちこっちの角度からですね、成就頂いています。ね。
その肝心要のです、その肝心要のです、ところが緩んだり、なかったりしたんでは折角末広のおかげを頂いたようであっても、これは台無しになってしまわなければならないと。同じだと言うこと。でね、その肝心要のですよ、肝心要のなら内容としては、ただ今甘い辛い、苦い酸いの信心が内容としておらなければならんのであるけれども、皆さんの信心の内容としてどうでしょうかと。
本気で素直になりたい、素直、素直に成らせて頂きたいという願いを持っておるか。ね。しみじみと、言わば辛い信心。しみじみとした信心がなされておるかどうか。ん。酸い辛いの、苦いの甘いの信心がでけておるかどうか。もうとにかくか、こちらの言い分だけは、言うておるけれども、こちらの言い分だけは、その並べ立てておるけれども、神様の言うだん全然聞こうとも思うとらんという人もありましょう。
神様はたえず私共に謎をかけて下さる。ね、その謎を解かせて頂こうとする、言わば酢の効いた信心がなされなきゃいけん内容として。ね、果たしてそういうような内容をもったところの信心が出来ておれば、それが肝心要であると、私はそんなことを夕べ私、ちょっと風邪具合が悪かったもんですから、ご祈念後にお風呂に入って、もうみんなが休んでしまってから、最後にお風呂もう、終わった時には丁度12時だった。
それを湯船の中でつからせて頂いて、夕べの御理解をずっと心の中に描いて、ね。しかし肝心要の信心が四つもあって良いだろうか、と私が思うたんですよ。要、要ならいっちょでよかろうごたると、私こう思うたんです。ね、そうでしょう。が。要に四つもなかもんにゃあ、あれにゃあ。要は一つぢゃん。
神様は甘い辛い、苦い酸いが要じゃと仰るけれど、そん四つも要…。どうか一つぐらいでよかりそうなもんだと、私は思うたんです。そしたらですね、今あそこにお供え頂いておる、お広前にそこに座っておるその、ストーブを頂くんですよ。ストーブの火の入ってないやつを。ははー、なるほど、と私は合点させて頂いた。皆さんお分かりになるでしょうか。
なるほど肝心要っていうのは一つだな、ということです。ね、けども、一つだけれども、一つだけども内容をこう、いわ、厳密にです、わって見ると今の四つになるわけです。
例えばそうでしょう。そういうような事がなら、昨日の朝から私が申しておりますことがです、はー、なるほどなー。先生が思うことが成就しない。そん時に、お知らせに盛り塩を頂きなさったげなと。ね、あの神様の前にお供えする塩を盛ったやつ、それから先生が悟られたことはです、ははー、思うことが成就しない、成就しない時こそ実を言うたら、あの塩はね、神様の前にお供えをするのは塩水と言うて、水と塩を必ずお祭りの時にお供えいたします。
塩水というのは、神様のお供え物の全部に味をつけるために、あの塩水をお供えするもんですね。その塩を頂いたということはですね、ん、そういう思うが、思うことが成就しないような時こそ、いよいよ神様が塩を私共に下さっておる時であるから、その塩を、そのそれを機会にです、シャンとする者はシャンとし、改まる者は改まって、いよいよ味わいを味おうて行けと。
安東さんじゃないけども、成就しなかった事が相済まなかった。相済まん事であったと、心からお詫びさせて頂きよりましたら、こりゃぁ相済まんだけではいけん。これは本当言うたら、お礼ば申し上げんならん事であったと。とお礼とお詫びを真実出来て来たというようにね。
そうそう言うような事を皆さんは聞いて、はーもう私はお礼とお詫びの信心ばっかりしとりますと、言う人は沢山あります。お道の信者の中には。もう毎日毎日がもうお礼とお詫びばっかりしとります。言うでしょうが皆。もう何十年っちって信心しとる人達は皆これ、これ一つしか言いません。もう、本当にお礼とお詫びばかり。ね、そういう意味でのお礼とお詫びじゃいかんのです。
ね、末広のおかげが頂きたい、日勝り月勝り年勝り。言うなら代勝りのおかげを頂きたい。ために私の信心の内容というのが、甘い辛い酸い苦いというような信心が内容として、それが要としておかげを頂かねばならんがです。私が昨夜思うたようにです、しかし要っと言うのは四つもないが、一つに絞られるもんだろうかとこう。一つで、どれか一つでけたらそれでようはないだろうか、と思うた。
そしたらいやその夢の中でです、神様あのストーブを頂いた。ね。昨夜のご祈念に、毎晩堤さんの長男のきよしさんが参って見えます。先生今朝方からこう言う様なお夢のお知らせを頂きました。始めは竹を頂いた。でその竹をこう外、外ぼうきですね。外ぼうきをつる、作るです。あれでその、ほうきを作っておるところを頂いた。どういうな意味なもんでしょうか? さぁそんそう、竹ぼうきちゃ外ぼうきじゃけん。
外んこう外ばきれいにせろっちいうこちゃろうもんって私は。ね。信心させて頂きゃ確かに、その内容ね、信心させて頂きゃまず自分の心。内容を本気で見極める事になって来るから、自分の心の掃除を一生懸命することが信心である。神様が見てくださるのはここだけなんである。だから本気で改まりもしよう、磨きもしようという事になって、言わば内の掃除はたえずするけれども、外の掃除ををお疎かにする。
外の、内容の掃除。心の掃除が、神徳を受ける元になるならばです、外の掃除は人徳を受けるという御理解だったね。例えば信心なしよるけれども、あそこんとは、同じもんばってんか、あそこんとのが一銭高か、というような事ではいけんということ。お商売させて頂くでも。ね、同じものなら、あそこんとが安か。同じ値段ならあそこんとが品物がよかというようなです。
あり方にならなければお道の信心を頂いておる信奉者の生き方いわば商売。私は商売なら商売の事ばっかりしか申しませんけれども、こりゃなんの事でも同じ事。ね、なら原さん原さんという洋服屋さんがある。技術屋さんがある。ね、仕立ても良いが値段も安かと。しかも実意丁寧な言わば仕上がりが出来ておるというようなおかげを頂いてこそ、成程信心させて頂いておるけん違うなという、言わば外掃除が出来るわけでしょう。
私は何時もこのその事を外掃除の意味合いにおいての例に出すんですけれども、久留米に笠さんというて、毎日自動車の修繕工をしてある修繕をなさっておられる方なんです。毎日もうここ5、6年参って見えます。もうこの人はですねもう本当に馬鹿ほどに、いわゆるその信心を地でいく人なんですね。もう話を聞きよりますとですねもう本当に昔むかぁしの何かこう、あの落語のねたにでもあるようにですね、
感心のする人なんです。いわゆる職人気質のある人なんです。店を大きゅうしようとは思わん。職人はだでしたんじゃそ、仕事が疎かになる。もう自分が出来るだけの事を実意を持ってしたいっち。人が十円のものを5円でするという、自分の体がちびれるということは無いのですから、自分の体をつか、もう教祖のみ教えをそのまま地で行くような感じなんですね。言うならば。
先日から仕事された。3万円、余りの仕事だったらしい。ところが実際は1万円しかいらんって言われる。向こうでは3万あてにとったわけである。ね、それでああた二人がもうやりやり、片一方はしゃっち3万円渡すと言い。私は1万円でいい。嘘のような話なんですけれど、本当だなんですよ。向こうはだからいっぱい機嫌でですね、もうあん男ばっかり、あげな奴はおらんっち言うちゃる。
どげん言うたっちゃりゅうさんが取られん。あんたがいくら言うてん私は貰わん。そこでその、そこの奥さんがなかずみ取って、そんならんならもう5千円あんたがもろうて下さい、先生があげん言いよるけんでっち。もうもうしょうことなしに5千円もろうて来た。そんな人なんです。先日も福岡の高橋さんが、しゅじゅあのう検査にある、自動車の修繕を願う、願われた。
高橋さんも言うておられますように、もうそれこそもう普通ではですね、もう言うたところだけしと、けやせん。けれどもちゃんと替えねばならん所は替えてあり、修繕調子の悪いところは調子のでるところまで修繕が行き届いてしてある。1万5千円あてにしとりました。そしたらりゅうさん8千円しか取らっしゃらんっち。どげんさせて頂こうか、もうこの人はもう絶対あんたがつけてやりゃしてんとりゃせんがっち私が、けどそのまぁ実際に、そう言われた。やっぱり案の定取られなかった。
さぁあそこでこちらもちったそん違うもんですから、もうその考えられたんですねー。1万5千あてにしておるとが、8千しか取られん。その翌日笠さんが参って見えましてから、私が申しました。お広前にあのストーブのお供えがきとるですがね、ありゃ笠さんああたがしなさったと同じ事ですよっち私が。どうしてですかっちてから言いなさるですから。あんたたか高橋さんに大勉強してやったそうだもんだから。
高橋さんそれじゃ相済まんと言うて、神様あのお広間のストーブのお供えをしちゃるとですよっち。ありゃあんたがお供えしたと同じこつってと私が申しました。ね、笠さんがお供えしたっと同じことであると同時に、高橋さんがお供えをされたという事になるのです。もうその一言からどれだけ大きくなって行くやら分からんです。こういう事が私は外掃除だと思うですが、どうでしょうかね皆さん。
もう信心を頂いておらなければ出来るこっじゃないです、言うなら。内掃除もするのだけれども、外掃除にも心がけなければいけん。そこにも教えが生き生きとしておらなければならないという事。そこで私がです肝心要の四つの物を一つに絞る。そしたらあのストーブを頂いたと。どういう事だと思いますか。例えばあっこにストーブが座っとるだけじゃ暖かんないです。
あいに火が入ってなきゃかえって冷え冷えをして、した感じですもんね。ストーブあいに明々と火が入って暖かにもなる感じも暖かい。私は思わせて頂いたははぁ例えばね昨日の朝がから頂く事夕べ頂く事。ね、そして私が思うた事四つのものを一つに絞るということはです、そのそういう内容にです、いわば熱がかからなければならないという事であると思うた。熱が入らなければダメだという事である。笠さんの場合でも高橋さんの場合でも。熱がなからなければその事は実行でけんですそうでしょうが。ね、
5千円特別のおかげを頂いたけんで、五百円ばかり、10分の1の5百円ばかりちょこっとばっかし。これは熱のない証拠です。ね。熱があるからこそ、例えばそれにいくらか足してからでも、そのそういう神様の喜んで頂くような御用が出来たわけなんです。こりゃ、私は、この熱という事は決してお供えだけの事ではありません。信心にいわゆる、熱、熱気がなからなければいけません。
触れば熱っと言うくらいなです、その熱気がなからなければ、一切の言わば暖かにもなりません、ままにもなりません。ただそれを知っておるだけではいけません。もう、お詫びとお礼ばっかりしております、と言うとっただけではダメ。末広のおかげを頂いて行くための肝心要にこの四つの要素がなからなければならんって言うこと知っておるだけではダメ。その内容がです、要素の一つの熱気ともなり、ね、
触れば熱いとも暖かいともなるような物になってこなければいけない、ここ一つにそういう内容をもって、そこ一つに絞らなければならないということ。知っとるだけでは、とんお知っとったってダメだということ。ね、そこでなら熱のある信心とはどういう信心かと。ね、それには私思うんです。やはり願いを持たなければならないという事。ね、止むに止まれんほどの願いを持つことだと。
願いを持つから、願いを持つからこれほどの願いをしておるから、ひとなみにねむとっちゃおられん、と言ったような熱気が出てくるのですよ。ね、そのその願いがですさっきから申しますように内容にもあり、外側にもありと言うようなものになってこなきゃ、高橋さんりゅうさんの場合はこりゃ外側に出た場合、わけなんですよ。その熱気が。ね。例えば、私があの昨日の朝から申しております、その塩の事です。ね。
柿のお供えにねずみが来ると。その事からです、私自身の内容に熱気を持ってです、すがって行くと言うこと。それなら愈々本気で改まりもしなきゃならん、磨きもしなければならんという熱気。内外共にそうした熱気その信心の熱を持ってです、おかげを頂かなければならん。ために一つ願いを持て。どうでもこうでもと言う願いを持て。
本気で改まらせて下さいという内容的な熱を持てと。どうでもこの事だけは成就させてもらわんならんと外側に。年末なら年末までに、これだけの金銭の送り合わせを頂かなければならんならです、そのことに、その願いを本気で持てと。そしてどうでも頂かんならんという所から熱気が自ずと出てくるような気がするんですよね。おかげ頂きました。